何でもないことのように思える...生き延びること、さまようこと、小便をすること、食べること、呼吸すること、聞くこと、見ること。
私が探しているのは、形を含んだ形、非常に形のない形、変形はしていないが、おそらく奇形である。現在の文脈では、あまり形の良いものは、私には不十分で、役に立たず、時代遅れのように思えます。
表現したい、自分自身を探求したいという欲求に従うという避けられない制約があるにもかかわらず、書くことが自由な行為になるような形です。
私や、おそらく方法を見つけた他の人々が、別の空気、つまり発明された空気を吸うことができる形。機械的なジェスチャーだけでなく、呼吸を提供する空気。呼吸が動きを意識するような空気感。恥じることなく、正当化することなく、そうすることで自分自身を解放する喜びのために、泣くこともできる広大な領域を占める空気。高速道路のサービスエリアで、道路脇の下草で体をほぐしに来る空気。空気の入れ替えのために自分の車を停めて、澄んだ空を楽しみながら、コンクリートが通り過ぎるのを見ながら、おしっこをしたり、つまみ食いをしたりする場所。歩道では、自分のアイデアで世界を作り変えることができます。あるいは全く考えていない。自然は美しく、セメントは悪いという文化的なアリバイはもうない。すべてが調和して静かで、エンジンと鳥の鳴き声が調和し、森の静けさに勝るとも劣らない静けさです。これらは私たちのものです。私たちがこのような空間を作ったのは、結局、川や森の純粋な自然の中では二度と生きていけないからです。だからこそ、夢と現実の中間を書きたいのです。私はそこに滞在して、風に逆らっておしっこをしたり、あまりおいしくないサンドイッチを食べたりしています。しかし、高速通路の匿名性が提供するもの以上のものを望みたくはない。少なくとも、いい加減な言葉のやりとりや、経験したくない殺伐とした雰囲気に囚われることはありません。
2015年11月18日 午前2時00分から
この酸性の雰囲気の中で、温めてくれる言葉がいくつかあります。 プロストレイトです。悲鳴を上げる。自分に迫る。走る。考えること。 空っぽの頭。自由度が高い。刑務所。そこにいること。去ること。ステイする。Cul-de-sac. ...そして、すべてを理解したと思っていたのに、残念ながら何も理解できない。